先人を超えるための探求は始まったばかり。妥協できる仕事だから、妥協しない。
群馬県富岡市出身。群馬県立吉井高校卒業。ボートレーサー養成所第115期。
ボートレース浜名湖で開催されたプレミアムGⅠ第5回ヤングダービー(2018年9月)で自身初優勝。記念レーサーの仲間入りをいきなり果たす。新進気鋭の群馬の精鋭として注目される。(※2021年11月現在)
2018年9月、ボートレース浜名湖は驚きに包まれていた。GⅠヤングダービーに出場していた群馬の関浩哉がGⅠ初出場、初優勝を成し遂げたのだ。その表彰式で「いろいろな人の支えがあってレーサーになれました。自分だけの力では絶対にここまで来られませんでした」と語ったが、その素朴な人柄にファンの多くが共感した。関の魅力はいったいどこから来たのだろうか。
世界遺産の『富岡製糸場』は群馬県の南部にある。関浩哉はその近くで生まれ育った。「自分は山の子です。猪の子・うり坊を追い駆けまわしたり、探検したり、基地を作ったり、少ない人数で野球したりして遊んでいました。負けず嫌いなところがあって、みんなが怖がるヘビなんかは何ともなかったです』と幼いころを振り返った。恵まれた自然の中で個性を伸ばしていったのだ。
そんな負けず嫌いがもたらしたものがいくつかある。そのひとつが駅伝。中学時代、1500メートルを4分30秒ほどで快走した。「中学も高校も野球部だったんですが、早かったので中学校では駅伝大会のメンバーに選ばれました。大会で優勝したこともあります。結構苦しくなるのが早いんですが、気持ちで走っているとランナーズハイになっちゃってタイムが出るって感じでした」と負けず嫌いが功を奏した逸話もある。
本格的に野球に打ち込んだ高校時代は2番セカンド。小柄で頑張り屋らしい打順とポジションだがここでも関の特異な性格が表れる。普通、ピンチの場面で守備側は、打球が来ないように祈るものだが、関は違った。「難しいゴロ来いって思っていました。プレッシャーが楽しかったです」と回顧する。GⅠ初出場初優勝を達成した背景にはプレッシャーに強いメンタルがあったのだ。
そんな関がボートレーサーを目指したのは高校2年生の春。家具職人だった祖父から「ボートの選手はどうだ?!」と言われたのがきっかけだった。何より身体を動かすことが好きだったのと高い賞金が魅力だった。当初、反対していた先生も、その意気込みと努力を知るや1年後には応援してくれるようになっていた。今となっては、この時代の周囲の支えは極めて大きい。
「高校に行きながら中学の勉強をやり直しました。国語・数学・理科・社会の4教科の問題集や高校入試の過去問をやりまくりました。それもあり、受験1回目の1次は合格しましたが、2次はボロボロでした。やっぱりやってないことはできないと思いました」と話す。そして、勉強に加え身体的なトレーニングを積んで臨んだ2回目で合格となる。「でも、ボートレーサー養成所では全然通用しませんでした。失敗が多く、自分の判断ミスで訓練全体が止まってしまったこともありました。教官から『適性がない』と言われたこともありました」と振り返る。つまり退所の可能性さえある中で過ごした1年だったのだ。
「だから、誰よりも研究しました。素質というかもっているもので劣っているので、研究して研究して力をつけていくしかないって思っていました。乗艇訓練では、いいターンってどんなターンなのか一生懸命考えました。そして、そのターンはどうしたらできるのか追求しました。自分にはそうした道しかなかったように思います」。
困難に立ち向かう時間が与えるものは大きい。この時期、『覚悟』が培われたと言ってもいいだろう。
「でも、ボートレーサー養成所では全然通用しませんでした。失敗が多く、自分の判断ミスで訓練全体が止まってしまったこともありました。教官から『適性がない』と言われたこともありました」と振り返る。つまり退所の可能性さえある中で過ごした1年だったのだ。
「だから、誰よりも研究しました。素質というかもっているもので劣っているので、研究して研究して力をつけていくしかないって思っていました。乗艇訓練では、いいターンってどんなターンなのか一生懸命考えました。そして、そのターンはどうしたらできるのか追求しました。自分にはそうした道しかなかったように思います」。
困難に立ち向かう時間が与えるものは大きい。この時期、『覚悟』が培われたと言ってもいいだろう。
2014年11月デビューの関浩哉が目指すこと。それは「トップレーサーができなかったことができるようになる」ことだ。2018年のMVP峰竜太やニュージェネレーションを代表する桐生順平や茅原悠紀をもってしても、「ターンは完成されていない」と考えている。「同県のSGレーサー毒島誠さんは本当に面倒見のいい方でとてもお世話になっているんですが、その毒島さんでも到達していない分野があるはず」だというのだ。
「ここが限界って、上限を決めてしまったらそれでおしまいだと思うんです。先人ができなかったことや思いもつかなかったことがあるかもしれない。そこに向かって挑戦したいです。例えば、ハンドルを切らずにスピードを保って向きを変える方法があるんじゃないか、って。負荷のかからない旋回です。そのためには練習方法を確立しなきゃいけません。いろいろ工夫していますが、もちろん簡単ではないし、できないかもしれません。でも、失敗してもまたチャレンジしたいです」と語る。どこまでも前向きだ。「どんな仕事もそうかもしれませんが、すべてが自分次第のボートレーサーは、妥協しようと思えば妥協できる仕事です。だからこそ、内容の濃いレーサー生活を送りたいと思っています。昨日の自分より今日の自分。結果はどうあれ、毎日毎日、自分史上最高の自分でありたい」。そう語りつつ遠くを見つめる関の眼差しは真剣である。
どこまでも前向きだ。「どんな仕事もそうかもしれませんが、すべてが自分次第のボートレーサーは、妥協しようと思えば妥協できる仕事です。だからこそ、内容の濃いレーサー生活を送りたいと思っています。昨日の自分より今日の自分。結果はどうあれ、毎日毎日、自分史上最高の自分でありたい」。そう語りつつ遠くを見つめる関の眼差しは真剣である。